逆に訊きたいんだけど、
それの何が駄目なの?
どうも、P太郎です。
アドラー心理学disな人の言い分
以前、アドラー関係の会話をしているときにこんなことを言われました。
アドラー心理学ってぇ 結局ぅ
物は言いよう、みたいなぁ 感じですよねぇ~。目の前の問題をぉ うまいこと言い換えているだけ、みたいなぁ。
OH…MY…
なんと悲しい言われようでしょうか。
残念ながらこの方にはアドラー心理学の良さ・奥深さが理解できなかったようです。
控えめに言って万死に値しますね。そんなオツムが哀れな人とはもう口を利きたくないし、同じ空気を吸いたくないので、P太郎は強力な呪いの言葉を吐きながらその場を離れてL○NEをブロックし、その阿呆とは二度と合わないことを誓ったのでした。
…というのは流石に冗談でございます笑
そういう人も受け止めるのがアドラー心理学の懐の深さよ
そんなことを言われてP太郎はどう感じたかといえば、
「そう言い方もできるのかもねぇ」っていう程度でして。
いや実際ね、アドラー心理学が我々に求めることをとことん突き止めていくと、
仏陀とかキリストみたいな聖人レベルじゃねぇかしらと感じることもあり。
そんなもん万人に求めるのも酷だよねえ、って思うことも無くは無いのです。
そのぐらい実践が難しいことを踏まえると、アドラー心理学の表層的なところだけとらまえて、「問題のすり替え」とか「物は言いよう」とか受け取る人がいても仕方ないかなって。
ただ、一つ言えるのは、アドラー心理学やってる人なら、どんな考え方の人でも受け止めてくれるはずだっていうこと。それこそアドラー心理学に懐疑的な人であってもです。
なぜなら、他者に共感することこそアドラー心理学的な態度だから。
「貴方は貴方の目的に基づいて、そういう風に考えるんだね」
こんな感覚が根本にあるので、別にそれならそれで良いんじゃない?で済んじゃうのです。
ていうかそもそも、「物は言いよう」で良くない?
あと、冒頭の質問者にも伝えたのが、
「物は言いようだったとして、それの何が問題なの?」
コレです。
アドラー心理学は、ヒトに困難に立ち向かっていく活力を与える=勇気づけるための実践的な手法です。
誰がどう見ても絶対にそうだ、というのがいわゆる自然科学なわけですが、
人の心理というものは、自然科学とは異なります。
ヒトの心理は千差万別。個人差がありますからね。
だから、アドラー心理学が有効じゃない人もいるでしょう。逆効果な人だっているかも知れません。
でも、「物は言いよう」程度のことで人生を切り開く勇気を絞り出せるようになる人がいる、というのも事実なわけで。
ならそれでいいじゃないかって思うのです。
そんなわけで、「アドラー心理学に懐疑的なヒトをアドラー的に解釈してみた」という話でした。
では、良い人生を。