どうも、P太郎です。
そこかしこで言われていることですが、
東日本大震災から10年が経とうとしています。
10年前のあの日
あの日、P太郎が何をしていたかといえば、
ちょうど転職して半年もしていない頃で、
コンサル業界としてもあるいは社会人としても、
右も左も分からないペーペーでありました。
都内某所のプロジェクトルームで、上司の言われるがまま、
何やら小難しい資料を一生懸命に作っていた毎日だったことを覚えています。
その日も、朝は普通に家を出て、昼までいつもどおり必死のパッチで働いて、
夜もいつもどおりのブラックな時間を迎える…と思っていました。
そして2時46分。
世界は一変しました。
これはただごとではない
はじめは何事かと思いましたよね。
当時東京にいた人はわかるでしょうが、都内も結構な感じで揺れたのです。
ニュースを見るや、どうやら震源は東北の方とのこと。
「嘘だろ?」が最初の感想でしたよね。
こんなに揺れてて東京が震源じゃないんかいっていう。
ちょうどオフィスの窓から隣の小学校のプールが見えたのですが、
もう見たことがないほど波打っていまして。
オフィスにテレビがあったのでつけてみましたら、
お台場から黒煙が上がってたりして。
あとは軽食でも…とコンビニに行ったら、
何一つ残っていなかったりして。
みんな生存本能すげえなと思うとともに、
これは不味いことになったぞと。
ひとまず自分の家族(両親・祖母・兄弟・猫×2)の心配をしたものです。
まるで電話も通じないし、ガラケーメールもポンコツで。
※当時はガラケー全盛でしたし、クラウドなんて概念は浸透してませんでした。
でもその時は、まだまだ序の口だったんですよね。
東北に起こった様々な悲劇と比べたら、
東京で僕が体験したことなんて軽微なもんで。
変わっていく世界
その日は都心は(も)大混乱で、電車もろくに動かないものでしたから、
結局、家に帰れませんで。
当時一緒に働いていた上司の家に泊めてもらったのを覚えています。
翌日、なんとか動き出した電車に乗って、僕は千葉にある自宅へ帰宅。
(1時間の道のりが倍近くかかりましたけど(^_^;))
親族や親しい友人はみんな無事で、そこんところだけは良かったんですけど。
日々明らかになる東北の惨状を見るに、
ヒトの・自分の無力さを痛感せずに居られませんでした。
きっと色んな人の人生を変えたんですよね。あの震災って。
被災者の人生は否応なく変わったでしょうし。
被災していないヒトであっても、
使命感を感じてボランティアに行った人もいれば、
職を変えて何かを始めた人だっているでしょう。
できることを、やろう
では、震災に際して僕は何をしたでしょう?
まあ、大したことはやってないですよね。
仕事はそのまま続けたし、ボランティアにも行っていません。
せいぜい身の回りの人間の安否を確認して、
都心でも同じことが起こったらどうするんだろうと、
家族と連絡網を確認し合ったり、備蓄を強化したりしたくらいです。
あと義援金ね。これはできる限りだけどさせてもらった。
で、多分ソレで良いんだと思っています。
人は過去を変えることはできません。変えられるのは現在から未来だけです。
震災から人々が何かを感じて、それぞれの立場において、自ら感じたことを実行する。
それに良いも悪いもない、と僕は思っています。僕は僕を全うするだけ。
全うさせていただきました。
節目なんて言うけれど
10年って区切りは良いのでしょうけど、その実何も区切られないんですよね。
被災者も、同じ日本国民としても、
これからもずっと東日本大震災は現実にあった悲劇であり続ける。
その悲劇に際して、けして被災者というわけではない僕が
被災者に協力できることってなんなんでしょうね。
アドラーやってみて思うことですが、
ヒトが他者を助けられる部分なんて実はほんのちょっとも無いんですよ。
大部分、人は自分で自らを助けるんです。
ひどく理不尽な出来事に横合いから殴りつけられたとして、
それに抗い立ち上がるのは、いつだって殴られた本人なのです。
それでもなお、我々が他者にできることってなんだろう、って考えたときに、
ただひとつできることがあれば、多分「寄り添うこと」なんじゃないですかね。
皆、自分なりのやり方で、「寄り添う」。
身銭を切っても良い、助けに行っても良い。
でもみんながみんな、自分なりのやり方で寄り添う。
それが、被災者の「勇気」につながっていくんじゃないかと、
時間が経ってみて思う次第です。
まだまだいくらでも書けるんですけどね。まあ切りもないので。最後に…
すべての被災者に、祈りを。
今日はここまで。
今日の名言
「また 再建しましょう」
(只野昭雄さん・東日本大震災被災者)
では、良い人生を。